2012年3月12日月曜日

「まほろまてぃっく」をシリーズとして考察しようと思う

1期は何も問題なく終わった

 

問題の2期

 

2期も最終話付近以外は普通に良作だったと思う。

問題の最終話を除いてね

 

まほろまてぃっく最終話について

まほろまてぃっく~もっと美しいもの~の最終話の内容がいまいち理解できません。分かる方教えてください。また最後まほろは復活したのでしょうか?13話の戦闘で消滅したのではないのでしょうか?

 

この最終話を理解できた人は皆無に等しいと思われます。
制作者サイドがこの第2部で方向を誤り、修正不可能なまでに作品世界を破壊し、大風呂敷を広げて畳めなかった悪いお手本。
観た者の独自判断に任せた、お粗末な作品。

 

いまいち、なんですか。私には駄作にしか映りません。いまいちどころか、理解不能。原作に追いつく、というより、もっと消化すべきエピソードがコミック2巻分残っているのに、早々とみなわちゃんの話を出してしまうから破綻したのだと思います。原作者もコメントを控えた程だし、多数の出演声優さんも「わからない」とコメントしてますし、わからなくても問題ないと思います。
もうすぐ漫画の最終巻がでますから、そちらをお読みになって、本当の最終回をご堪能ください。
アニメの最後に登場したまほろさんは私も驚きました。こんな都合のよい展開があってたまるか、と。アニメですから、なんでもありでの開き直りとしか映りませんでした。13話でフェルドランスと共に自爆する必要があったのか。身体をもう一度再構成して復活できるのでしたら、寿命一年で延命不可、の設定も意味がない訳で、理解できません。理解できなくて構わない程の作品だと思っています。

まほろまてぃっく最終話について - アニメ・声優 - 教えて!goo
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1026369.html

 

 

さて、否定派にとって最大の謎は「どこをどうしたら『まほろ』をあんな作品にできるんだ?」という点ではないでしょうか。
アレを作る人間の心理、そしてそれを支持する人間の心理。
今回はこれについて、河合なりの鑑定結果をお話ししましょう。


ガイナックスの中枢にいる人々は、現在30歳代後半から40歳代前半。
この世代は10代後半から20代前半をバブル全盛期の中で過ごした人々で、進学に就職に仕事に、生存競争の中で自分を磨くべき時代を、彼らはほとんど無競争で謳歌してきました。
頑張らなくても良い仕事に就けたし、遊び半分だって仕事が務められた。


その結果、彼らは「ズルして勝つ」ことを覚えてしまったのです。
だって、頑張っても頑張らなくても出世できるんですから、努力は損でしょ?


しかし時は流れて10年後、即ち現在。
自分の牙を磨かなかった彼らは、数多くのライバルに揉まれてのしあがった団塊世代と、就職氷河期を勝ち抜いた若手に挟まれ、追いつめられています。
そして、自分の非力さを認め、反省して一からやり直す根性もないこの世代の人間が、自分のプライドを保つために何を始めるか。それはほぼ2択になります。
自分の力を認めさせるため、一発逆転の大仕事をしようとするか、
同じ土俵では勝てないから違う価値観で煙に巻くか。


まほろに話を戻しましょう。河合の鑑定結果は、あの最終回は
「名作を作ろうとしてズルをした残骸」
というものです。


少なくともまほろの最終話には、2つの「ズル」がありました。それを読み解いていきましょう。


監督・山賀博之氏の中に、描きたいものはあったと思います。
おそらくは、優とまほろが共に手を取り歩み始める、感動のエピローグを。
でも、まほろの原作はとても緻密で、原作をベースにして、そこにゴールさせるまでの架け橋を築こうとすると。通常、それは原作の優秀さの証明であり、喜ぶべきことです。


でも、山賀氏はそれがたまらなく嫌だった。
「まほろの結末は、自分にしか紡げないものでなければダメなんだ。そうでなければ俺が作る意味がない!」と。
その心根を支えるのが、自己顕示欲なのか、巨匠もしくは若手への対抗意識なのか、そこはご本人にしかわかりませんが。


果たしてあの最終回は、確かに山賀氏しか作れないものでした。
中山文十郎先生の「まほろ」の原型を残さず、上から油絵の具で全て塗りつぶしたのですから。
「まほろまてぃっく」がベースであることが、かえって邪魔なくらいに。
つまり山賀氏は、自分の独自性を出す欲求にしがみつき、中山先生や視聴者と正面から向き合うことを回避しました。そのことが第一の「ズル」です。


ただ、敢えて河合は言いましょう。
それならそれでもいい、と。
原作を無視し、オリジナリティを主張する最終話でも、構わないよ、と。
しかし、残念ながらそれが作れるのは『天才』だけなのです。
果たして最終話は、アニメでもこれまで積み上げてきた「まほろ」を全て否定し破壊し、山賀氏の主張やメッセージ「らしきもの」をモザイクで散りばめ、不整合のまま野ざらし、という、普通に捉えれば失敗作というものになりました。

気の毒ですが、山賀氏は『一握りの天才』ではなかった。さしずめ、ロウの翼で神の座を目指したイカロスでしかなかったのです。


そして、綿密にメッセージや主張をつなぎ、わかりやすく描いてしまうと、天才なら紡げるであったはずの、本当に深い作品を自分が作れなかったことがバレてしまう。メッセージを「おでんにカクテルの屋台」で隠したり(※)、断片で散りばめるだけでわざと繋がないのはその証拠隠滅のためです。
山賀氏は、自分の作品を視聴者に理解してもらうことも回避したのです。これが第二の「ズル」です。
ところが、最終話肯定派は、その「不整合」を『奥深さ』だと言い、おでんにカクテルの屋台を「山賀監督からの隠しメッセージだ」と嬉々として解読し、その闇の深さに心酔するのです。


残酷ですが、この人々にも私は言いましょう。
それは、猟奇殺人や異常心理者を「社会の矛盾が生み出した彼らは、現代社会を変える突破口だ」と言って褒めそやし、「マーダーケースブック」や「羊たちの沈黙」を読みあさって知識を蓄え、理解にやっきになる人と同じ、
犯罪マニアの心理でしかないんだよ、と。


決して突飛な例えじゃないですよ、コレ。だって、
みんな5年前に「エヴァンゲリオン」で、犯罪マニアと同じことをしたじゃないですか。
TV最終話も映画版も、伏線も背景も視聴者に伝えられないまま、わけもわからず突き進むシナリオに、みんな翻弄されたじゃないですか。
フリーのライターや若手の社会学者が「現代の青年の叫びがどーたらこーたら」批評を始め、解説本や謎本や思想本があふれ、大人への反抗のシンボルに『エヴァ』を祭り上げたじゃないですか。
ハマった高校生・大学生が聖書や西洋哲学書を生かじりで読みあさり、端切れの知識を継ぎ合わせて『エヴァ』をしたり顔で語ったじゃないですか。

...5年経ち、熱狂も冷めた今、もう一度考えてみて下さい。
ホントにエヴァって、思想史に残るような作品でしたか?
当時の学者の褒めそやし方からすれば、『エヴァ』は50年後に教科書に載っていなければ嘘です。海外へも思想革命として伝えられなければ嘘です。1990年代の青年の心理を語るモデルとして、人類史に語り継がれていかなければ嘘です。
今でもエヴァに思想の可能性を見ている人がいることは知っています。その人たちは再編集版DVDを「買わなきゃ」という気持ちで待っているでしょうし、怒るでしょうね、僕のこの文章。
でも、僕は言うしかないのです。
王様は裸だ。
エヴァは書き殴りの落書きだ。まほろ最終話もしかり。

そして、それをまともに取り合う人は、錯覚しているんだ、と。

まほろアニメ2期批判の軌跡030216
http://www2s.biglobe.ne.jp/~varidea/crit09.html

より抜粋

 

14 : ななしのよっしん :2009/11/25(水) 22:08:01 ID: VPch0WFEVK

アニメ全話と原作全話をついさっき見終わったんだが…
個人的には、最後もほのぼの展開で終わって欲しかったなぁ
シリアスはシリアスでいいんだけどさ、日常パートのがもっと好きだったんだ…


15 : ななしのよっしん :2009/11/30(月) 18:16:47 ID: 2KuEiqiVSK

シリアス展開もちゃんと作ってくれるなら結構だが、
あの終盤の展開はありえない。それまでやってきた事すべてを制作のオナニーでぶち壊した。

ニコニコ大百科: 「まほろまてぃっく」について語るスレ 1番目から30個の書き込み - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/b/a/%E3%81%BE%E3%81%BB%E3%82%8D%E3%81%BE%E3%81%A6%E3%81%83%E3%81%A3%E3%81%8F/1-

 

 

それに対するGAINAXなりの反省の形がこれかと。

これを最早作品としての体をなしていない2期最終回と置換すればいいのです。

まあ、2期最終回も事前に酷評であることも、エヴァ終盤あたりのああいうオナニー展開であることは知っていたので、何かしながら適当に飛ばしみしていたのでどうってこないですが。

これから見る方には

1期→2期最終話付近まで→まほろまてぃっく ただいま・おかえり

という流れで視聴することをお勧めします。

2期最終回は見るだけ時間の無駄なので。



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